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いま現在、アメリカは戦時下であります。アフガニスタンでのタリバン殲滅作戦を展開していて、さらに増派しようとしています。。 同盟国の日本も、間接的に支援していますね。インド洋上での給油はまもなく休止予定です。 しかし、「戦時下」war-timeであるという認識が一般的にほとんどないのはどうしてなのでしょう? おかしくないですか? これは日本でもアメリカでも、UKでも同様です。現地に行っても、戦争中という雰囲気はまったくありません。 その理由のひとつは、戦争とは「いつもどこかで遠くで起こっていること」で、自らには滅多に降りかからないのが通常だということでしょう。 しかしより大きな理由は、<戦争が常態化してしまったこと>でしょう。これは、生や死の問題に常に人々がさらされていることを意味します。これが生政治biopoliticだとすると、この概念を拡張することで状況はより鮮明に見えてきます。 これは、新型インフルエンザや自己免疫疾患自体が、もはや生物学的な戦争であり、それは生政治としての戦争と同じこと、同一のことなのです。 新型インフルエンザは、通常のインフルエンザとほとんど致死率が変わらないにもかかわらず、なぜこれほど恐れられるのでしょう。予防の効果がほとんどないことが知られているにもかかわらず、マスクを顔につけて、表情がわからない不気味さを生み出しているのでしょう。それは生物学的な戦いの中に「投機」されたのです。 ロベルト・エスポジトの概念をもっと広げてみます。なぜいま戦争が起きているのに、その実感がないのか。<<あらゆる場が戦争=戦闘の潜在的な場所になった>>のです。 冷戦時代は、そういうことはむしろありませんでした。戦争から逃れられる場所が存在しました。核兵器の問題を除けば、旧ソ連のウクライナや、アメリカのジョージア州は戦地にはなりえなかったのです。 そういう現象の中で、冷戦そのものが自己解体し、そして「新たな戦争」への回路が開かれました。その過程のなかで9/11が起きました。 このような視点を導入すると、ナチスが違ってみえてきます。現在の時代の先駆的な形態がナチスなのです。もちろん最悪の形態であり、生と死の組織的管理です。 アーレントの全体主義への分析は素晴らしいものですが、しかし、現在に対してそれは有効とは言い切れません。 というのもナチスと全体主義は別物だからです。むしろ現在とナチスの生政治がつながっている、と考えたほうが、いまの時代がよくわかるでしょう。ここに関してはエスポジトも書いています。 そのような遍在化した戦争空間は、他の分野でも見ることができます。 たとえばサッカーの場合、背番号10番=司令塔的な役割は減少し、実質消えつつあります。誰もが攻撃と防御を同時にしなければなりません。これが21世紀初頭のサッカーです。 ジャズやクラシックでも、役割分担は消滅しつつあり、とくにテクノではほとんど1人で音楽を演奏したり、実質プログラムが演奏していることもあります(主体性の消滅)。 この際に、ほとんど唯一、異質な要素をいまだに持っている場が、空間や地理的に存在します。それがホテルでしょう。開放されていると同時に閉鎖されています。戦争空間からかろうじて逃れています。だからこそ、ホテルがテロの対象になるのです。イスタンブール、ムンバイ、シャルム・エル・シャイク、バリ。そしてテロが起きると、怪我人にタオルや救護所を用意します。それがホテルです。 |
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