時代区分のワナ Booby Trap of Historical Philosophy

以前、「新しい時代区分の提示」というテーマでエントリーをしてみました。
http://extra.at.webry.info/200704/article_7.html


この意図はシンプルなもので、古代・中世・近代・現代の時代区分では、現在の特異性が把握できないからです。



しかし、自分は上記の「文字、紙、コンピュータ」という、<テクノロジーもどき>のようなもので歴史を定義しようとしていました。正直なところ、このときにどうしたらいいかわからなかったのです。そしてこの区分は根本的なところで誤っていました。

なぜなら、まず歴史を静的なもので捉えようとした。歴史自体はきわめて動態的でダイナミックなものです。歴史的史料は静的ですが(いや、それすら怪しいものです)、歴史そのものは液体のようにつねに不安定で、捉えにくいものです。



それから、歴史を個人レベルの能力の向上で把握しようとした。これでは歴史全体性は把握できないでしょう。

つまり歴史とは個人の能力や、個人(そもそも個人という概念が歴史的なものです)の移動可動範囲で計られうるものではない。そうではなく、より社会的なものなのです。

たとえば、エリート階層が大きく変動することが歴史を構成するのではなく、そのエリート階層の変動が、他の階層を生み、そしてその階層の変動を生むという、再帰的reflectiveな諸関係のなかで捉えられるべきなのです。

この点ではマルクスの考えるとおりであり、歴史とは社会関係なのです。ただし所有関係ではない、ということがマルクスと自分は異なります。

もし上記のような、動態的な社会関係として歴史を規定できれば、ある社会全体の使用可能な情報量がわかれば(これは計測可能)、そこからどういう時代か、ということもわかり、現代という時代も「理解」しやすくなる。



しかし、困ったことに、現在ある歴史学の本や、書かれた歴史は、あまりに長く続いていた、古代、中世、近代、現代という区分に囚われすぎていました。その視点でしか歴史が書かれていないのです。(もちろん松岡正剛さんの『情報の歴史』などはあるのです。これは要再読!!)。

となると、新しい歴史観を構築する場合に、いきなり脚をすくわれます。これがいまの歴史、あるいは歴史学がひっかかるであろうワナでしょう。


そして、そこから抜け出さなければ、新中世化とか再中世化などと呼んでみても、あまり意味はないでしょう。









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