「日本語」の「美」(その2)

前回、例として挙げてみた日本語(あるいは大和語と呼ぶほうが適切か?)の特徴として、漢字熟語の多用があるでしょう。



例。

山形領に立石寺と云(いふ)山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊(ことに)清閑の地也。
 (『おくのほそ道、〈立石寺〉、岩波文庫版、p.45)



漢字を和音で書き下すことによって、硬質の音声が生じ、ひらがなと交互に音声が展開することからリズムを作ろうとしているのですね。


また視覚的にも線が密に絡まった部分と、疎にして、まばらなひらがな部分とにきれいに分離されています。


漢字かな混じり文と似た状態は、最近の研究で他の言語にもあったことがわかってきているようです。シュメールの神聖文字から民衆文字への移行の際に、同様の、漢字かな混じり的な状態であったことがあきらかになっている(三浦雅士、白川静問題―グラマトロジーの射程、「アステイオン」、2007年、67号、p.127)。


このひらがな、そしてカタカナ(その起源には議論があるところです)と、漢字の組み合わせというのが、視覚的、聴覚的に日本語に決定的な影響を与えているとはいえそうです。


そして、このようなテクストを音読すると、黙読するよりもはるかにすがすがしく感じられます。これは自分だけではないですね。もちろん、黙読という習慣は現代のものでしょうから、音読のためだけに文章は書かれているのでしょうが。






この音読のすがすがしさに気がついているのが、作家でしょう。


春琴、ほんとうの名は鵙屋(もずや)琴、大阪道修町の薬種商の生れで歿年 明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗の某寺にある。
(谷崎潤一郎、『春琴抄』、冒頭部分、新潮文庫版より)


この『春琴抄』という短いテクスト自体が、謎が謎を呼ぶ構造になっていて、まずはなぜ「抄」(一部分)なのか、という疑問も解消しきれないのですが、それはまたの機会に譲りましょう。


谷崎は、どうみても、句点や読点の位置(句点はしばしば省略されます)、そして漢字を使うのか、ひらがなを使う(ひらく)のかに、ことのほか心血を注いでいるのです。




最近の日本語の書き言葉に、あえてカタカナやひらがなをあえて使う傾向が散見されます。「~だと思いマス」「すぺしゃる」というような風にです。


過去の日本語は美しかった、いまの日本語は醜いなどということを言うつもりは毛頭ありません。懐古趣味は現在と未来からの逃避ですから。
そうではなく、漢字かな交じりの文章というものから、少なくとも近畿や関東の人たちは離れることはできず、そこにさまざまな表現上の創意を込めてきた。そしてそれはいまの時代でもそうである、ということを確認したいのです。


その視点で見ると、このブログの文章は美しくない。読みやすいように書こうとしていることによって、美しくないのです。実用を目指し美を失う。そういうことかもしれません。


これは、おそらく誰しもの課題になりうるかもしれません。言語は「道具」でありまた思考そのものでもあります。であるとすれば、伝統を受け継ぎつつ、新たな日本語の作成というのは一大テーマになりうるでしょうし、それは思想や社会のアーキテクチャーにも影響するだろうと断言もできるでしょう。









春琴抄

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この記事へのコメント

きんさん
2008年03月31日 21:24
そうかあ。
こうやって2日分をまとめて読みましたが
古典をもう一度、引っ張り出さないと。。。
田中 公一朗
2008年04月01日 00:23
そうなんですよ!笑

クラシックスがなぜクラシックスか。人がなにに「快楽」を見出すかは時代によって違うでしょう。しかし言語に関しては、それほど大きく変わらないかもしれません。

『春琴抄』の冒頭のワンセンテンス、音声的特長もいろいろありますね。まずは/j/がらみの音が多いこと。
視覚的には漢字を詰め込んでいることでしょうか。

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