ムロマチズムの検体 Muromachism under Test

時代は「室町化」していますし、してゆくでしょう、などということをどこかで書いたのです。つまりわかりやすく言えば、グローバル乱世ですね。中世期のポイントは、

*人的ネットワーク
*武力
*文化
*商業活動

といっていいでしょう(石井進さんの考え方を取り入れています)。国、国家の力はむしろ弱い。個人の時代であるし下克上でもある。このへんは、自分の体調が復活してきたので、調査活動を進めます。日本史研究もずいぶん様相が変わってきたからです。国家史観から離れられるようになった。


さて、室町以前と以降の歴史を大きく分けたのは内藤湖南でした(*) もちろんいまとなっては、社会制度はさておき、日本地域に住む人びとの精神性を考える場合、応仁の乱以前も当然考える必要もあるでしょう。またウタリ(旧称アイヌ)、「匈奴」以来の大陸からの相互の影響関係も必要になるでしょう。

さて、今日の話は、現代の内藤湖南、と呼んでもいいだろう杉山正明さんと、北川誠一さんの共著、『大モンゴルの時代』です。杉山さんは、途轍もなく重要なことをさらっと、それもいろいろな観点から書かれる油断のならない歴史研究者です。もちろん最良、最高の意味です。
(ちなみにこの本、前もお奨めしていますが、カラーであり、写真、地図が多く、丹念に作られています)


彼はこう書く。(概略)


南北朝以降の室町文化とは、能楽、茶の湯、生け花、水墨画、小笠原流などの礼法、書院造りであろう。

これらは大陸から移入されたものが「もと」になっている。五山文学や禅文化は当然だろうが。

能は仮面演劇で、舞台演劇の仕方(注:舞台構成のことか?)や呼び名からみて、金代から元代に行なわれた「なぎ」すなわち、ヌオ・シーと濃密な関係が想定される。

書院造り。書院は、宋代に限られたものとしてあったが、モンゴル治下に全国に孔子廟が官立で造られ、それが書院の一般化である。

つまり彼は「室町文化は、ようするに、その多くが元代文化なのであった」(p.287)と言うのである。それらが日本風に(注:この際の日本風とはなにを意味するのか?)アレンジされ定着したあと、東山文化において、侘びの感覚が付け加わったというのである。


ここのところ、しばしば書いている「モンゴルインパクト」を考慮にいれれば、そうだろうし、むしろ上記のようでないほうがおかしいとも思える。しかし、このあたりのことを個人的にはより厳密に知りたいところでもあります。

いま刊行中の小学館の「全集 日本の歴史」にも期待しています。もちろん単行本も探してみますが。





(*)
よく引用される部分は、内藤湖南、「応仁の乱に就いて」です。長いです。「青空文庫」から引用させていただきました。記して感謝します。なお朱による強調は田中です。


 私は應仁の亂に就て申上げることになつて居りますが、私がこんな事をお話するのは一體他流試合と申すもので、一寸も私の專門に關係のないことであります、が大分若い時に本を何といふことなしに無暗に讀んだ時分に、いろいろ此時代のものを讀んだ事がありますので、それを思ひ出して少しばかり申上げることに致しました。それももう少し調べてお話するといゝのですが、一寸も調べる時間がないので、頼りない記憶で申上げるんですから、間違があるかも知れませぬが、それは他流試合だけに御勘辨を願ひます。
 兎に角應仁の亂といふものは、日本の歴史に取つてよほど大切な時代であるといふことだけは間違のない事であります。而もそれは單に京都に居る人が最も關係があるといふだけでなく、即ち京都の町を燒かれ、寺々神社を燒かれたといふばかりではありませぬ。それらは寧ろ應仁の亂の關係としては極めて小さな事であります、應仁の亂の日本の歴史に最も大きな關係のあることはもつと外にあるのであります。
 大體歴史といふものは、或る一面から申しますると、いつでも下級人民がだん/″\向上發展して行く記録であると言つていゝのでありまして、日本の歴史も大部分此の下級人民がだん/\向上發展して行つた記録であります。其中で應仁の亂といふものは、今申しました意味において最も大きな記録であると言つてよからうと思ひます。一言にして蔽へば、應仁の亂といふものゝ日本歴史における最も大事な關係といふものはそこにあるのであります。
 それは單に一通り現はれた所から申しましてもすぐ分ることでありますが、元來日本の社會は、つい近頃まで、地方に多數の貴族、即ち大名があつて、其の各々を中心として作られた集團から成立つて居たのであります。そこで今日多數の華族の中、堂上華族即ち公卿華族を除いた外の大名華族の家といふものは、大部分此の應仁の亂以後に出て來たものであります。今日大名華族の内で、應仁の亂以前から存在した家といふものは至つて少く、割に邊鄙な所に少しばかりあります、例へば九州では島津家だとか、極く小つぽけな伊東家などいふのがそれであります。勿論肥後の細川は前からあつたのでありますが、あの土地に前から居つたのではない、其他秋月鍋島など少しばかり九州土着の大名がありますけれども、其土着の大名にしても、多くは應仁の亂以後に出たのであります。四國中國などは殆ど應仁の亂以前の大名はないと言つていゝ位です。それから東の方では、半分神主で半分大名といふのに信州の諏訪家といふのがずつと前からありましたが、關東ではまづないと言つていゝ位であります。東北に參りますると少しあります、伊達とか南部とか、上杉佐竹とかいふ樣な家は應仁の亂以前からあつた家でありますが、それでさへも應仁の亂以前から其土地に土着して居つたといふのは極く僅かであります。二百六十藩もあつた多數の大名の内でそれ位しか數へられませぬ。
 それと同時に、應仁の亂以前にありました家の多數は、皆應仁以後元龜天正の間の爭亂のため悉く滅亡して居ると言つてもいゝのです。昔、極く古くは氏族制度でありましたが、其時分には地方に神主のやうなものが多數ありまして、それらが土地人民を持つて居たのであります。それで今神主として殘つて居りますものに、出雲の千家、肥後の阿蘇、住吉の津守といふやうなのがありますが、皆小さなものになつて大名といふ程の力もなく、昔の面影はありませぬ。
 それから源平以後、守護地頭などになりました多くの家も、大抵は皆應仁の亂以後の長い間の爭亂のために潰れてしまひました。それで應仁の亂以後百年ばかりの間といふものは、日本全體の身代の入れ替りであります。其以前にあつた多數の家は殆ど悉く潰れて、それから以後今日迄繼續してゐる家は悉く新しく起つた家であります。斯ういふことから考へると、應仁の亂といふものは全く日本を新しくしてしまつたのであります。近頃改造といふ言葉が流行りますが、應仁の亂ほど大きな改造はありませぬ。この節の勞働爭議などは、あれが改造の緒論のやうに言つて居りますが、あんな事では到底駄目です、改造といふからには應仁の亂のやうに徹底した騷動がなければ問題になりませぬ。それで改造といふ事が結構なら應仁の亂位徹底した騷動を起すがよからうと思ひます。
 さういふ風で兎に角是は非常に大事な時代であります。大體今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、應仁の亂以後は我々の眞の身體骨肉に直接觸れた歴史であつて、これを本當に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言つていゝのであります、さういふ大きな時代でありますので、それに就て私の感じたいろ/\な事を言つて見たいと思ひます。が併し私は澤山の本を讀んだといふ譯でありませぬから、僅かな材料でお話するのです、その材料も專門の側から見ると又胡散臭い材料があるかも知れませぬが、併しそれも構はぬと思ひます。事實が確かであつても無くても大體其時代においてさういふ風な考、さういふ風な氣分があつたといふ事が判れば澤山でありますから、強ひて事實を穿鑿する必要もありませぬ、唯だ其時分の氣分の判る材料でお話して見ようと思ひます。併し私の材料といふのは要するに是だけ(本を指示して)ですから、是を見ても如何に材料が貧弱であり、極めて平凡なものであるかといふ事が分ります。

世界の歴史 (9)

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この記事へのコメント

さくらい
2008年06月04日 11:12
一昨年HL小論でお世話になった29期生の櫻井です!この間自由が丘の八百屋前でお会いしました!笑 先生と連絡を取りたいのですが、どうすればいいでしょうか?
田中 公一朗
2008年06月10日 20:23
ここにアドレスを書いておきましたが、、、ずっとさらして置くのもまずいかな、と。いったん消しました~

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