「映像の時代」は終わったのかもしれない Pictures Break Down

個人的なことですが、映像というものにほとんど信頼をおいていません。より正確にいうと表象そのものrepresentationにも疑いの眼を向けています。


たしかに表象=代理表象の「意味」について考えるということは有効でしょう。どういう画像がなぜ流通するのか? なぜそういう画像のみが流れるのか。決して流れない種類の画像があるのか?


たとえば、死体や災害の現場といった映像はマスメディアでもyoutubeやニコニコ動画では流されないのか、というようなことです。戦闘現場が据え置きカメラでライヴ中継されることもなければ、料理店の厨房内が映されることもありません。そういう映像が見たいということではなくて、映されない映像が圧倒的に多いということを言いたいのです。


映像には、かならずフレームがあります。通常は長方形の枠取りです。そのフレームの外側になにがあるかは映りませんし映しません。また映せない。ファインダーやデジカメのスクリーンの外側です。そういえば無意識とは、フレーム外のことを意味するのでもあるのでしょう。


では、なぜ映像がここまで人気があるのでしょうか?


それは「決定的にわかりやすい」からです。フレームの外側を削除することによって、危害を加えるものを消去しているからです。眼が見たくないものを削除するのよりも、さらに強力な削除だとも言えるでしょう。


そして眼に見えないものは、当然画像には映りませんが、それらは「わかりにくい」ものでもあります。


しかし、世界を回転させるダイナモ、エンジンは、見えないものなのではないでしょうか?

思想や愛というものは見えない。だからこそ世界を動かしてゆく。


さらに代理(映像)への疑いは、代理(代議員制度や民主制)への疑いにも通じるでしょう。よく唱えられる「見える化」ということも、想像力が機能していないということの表明でしょう。

こういう考え方は反時代的であるでしょう。実際に自分も膨大な編集済みの映像にさらせれています。映画を見にゆくこともしばしばします。コーエン兄弟監督の映画、『ノーカントリー』のような、どこから見ても完璧な映像に出会うこともあります。

しかしそれらにはいつも疑念を持ってしまうのです。これは「世界」ではない、と。




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