独裁政権とハイパー・フィクション Dictatorship and Hyperfiction

なぜ世界各地に独裁制があるのかを考えてみたい。

もし独裁政権に本当に合理的な要素が皆無であれば、それほど長続きはしないだろう。たしかに人は不合理な行動をするものではあるし、それは民主制でも起きることではある。
しかし、半世紀以上続く独裁制国家が少なくなく、また、民主制から独裁制に回帰する国家もあることを考えると、なにか原因があると思われる。

そのひとつのヒントは、独裁政権下の映画だ。

これらの映画を観てみると、そこには幾重にも倒錯した欲望を発見できる。ソ連の映像作家による、必要以上に詳細なアメリカの消費生活の描写が行なわれる。テクノロジー賛歌が、ポップカルチャーにとめどなく接近する。社会そのものがメタフォリカルに変化してゆく――アメリカはブルドッグか手に負えない猛犬になる。がっついた豚に表象される。

もうひとつ。日本の戦争中の「国策映画」であるはずの、黒澤明監督の『いちばん美しく』を見てみる。

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映像作品として、きわめてすぐれている。黒澤得意の電車(平塚駅近くの東海道線沿線という設定)や、ニコンの横浜工場の精密な撮影が行なわれ、バレーボールのシーンのような表現主義を客観視したようなショットがある。レンズ工場の張り詰めた空気をしっかりととらえ、その中でチェーホフ的ストーリーが展開してゆく。

にもかかわらず、この作品は評価がどうしても低くなる。

それは、政治的な意図をもっているから、ということになるのだ。要するにプロパガンダであると。

この2つの作品を考えてみると、そこには<ある種の現実性を挿入しすぎている>ことが挙げられる。もはや、それらは単なるフィクションを超えているのだ。(黒澤の『姿三四郎』にもその要素はある)。


映像とは通常フィクションであり、それはドキュメンタリーであろうが、私的な画像であろうが、なんらかの制作意図が入り込む。ところが、製作意図が入り込みすぎることでフィクションではなくなってしまう、ということだ。

それをいま「ハイパー・フィクション」と呼ぼう。

だとすれば、このハイパー・フィクションの状態は、たんなる物語やフィクションといった意味をすり抜けてしまい、より堅牢なフィクションになりすぎてしまう。


独裁制とは、このような映画に端的に観察できるハイパー・フィクションが、他の選択的政治的フィクション、たとえば共和制というようなものの効果や存在可能性を減殺してしまうのだ。
多くの人にとって、民主制が実際に敵視されるのは、そのハイパー・フィクションが機能しているからであろう。

独裁制のニュースを見ると、民主制の側にいる人からすれば、悪いジョークのようにみえる。それは民生制の側には、フィクションの選択肢があるからだ。

再帰的という現象は独裁制のなかでも起きている。再帰的に独裁制は自己を強化し、ついにハイパー・フィクションの領域まで立ち上がる。独裁制は、このようにしてまるで宗教のようであり、実際に宗教になっている。

このアイデアはまだまだ発展可能かどうかはわからないが、独裁制延命の説明として可能性をもつだろう。なぜプロパガンダということで、民主制下にいる人が眉をひそめるかも。






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