安藤忠雄の打放しは、打ち止めにすべきではないか。

なかなかこのことは建築界の内部にいる人は言いにくいのかもしれない。でも、安藤忠雄さんの打放し建築は、それほどすぐれたものだろうか?


たしかに、彼の造形力は、先人の建築をたくみに引用しながら、その地に合う構造物にしてはいる。たとえば、淡路島夢舞台は、比較的制約が少ない斜面を存分に使って「夢」のスペースを作っている。黒川記章のオマージュであろう閉館が伝えられる天保山のサントリーミュージアムもそうである。


しかし、彼の特徴は「打放し」のコンクリートであろう。


打放しのコンクリートそのものは、彼の独創では当然ない。ロベール・マイヤールもそうだし、モダニスト中のモダニストのル・コルビュジエ自身、コンクリートをなにものでも覆わない建築を作っている。ルイス・カーン、そして前川國男の東京文化会館も有名だろう。


コンクリート自体は、素材感や色彩から言って、建築物の表層にあってはならないものであった。鉄筋を入れてはじめて必要な強度が出、そこに塗装を行なうものだ。


ところが、そういった固定観念を日本で壊したのが安藤忠雄であった。この辺はよく語られることなので繰り返さないけれど、充分に仕上げ、継ぎが行なわれていれば、「コンクリートという素材」のよさを生かせるということなのだろう。そして確かに一時代を築き、建築史の2ページくらいは占めているだろう。いや、一時代を築いたから素晴らしいのではなくて、建築家として新しい価値を創出した、ということだろう。


しかし、素材はあくまで素材であり、素材そのものが完成品になることはない。


たしかにコンクリートの中心部のアルカリ性が保たれれば、建造物としては長持ちはする。いったんコンクリートが中性化すると鋼材を腐食させ、鋼材は膨張する。そこからクラックが生じる。
それを避けるために施工自体に慎重さと熟練が要求され、また保守にもコストがかかる。保守、修理している状況は美しくない(たとえばマンション外壁の補修のケース。もっともこれは打放しではない)。このようにコンクリートのもつ繊細さに対応するために、鍛えられた職人も多いと聞く。だが彼らこそがコンクリートの弱点をもっともよく知るのではないか。



そして、あのコンクリートの色彩や質感である。夏は夏で、照り返しが厳しく素っ気ないし、冬は冬で寒々しい感覚を強める。鉄(スティール)ほどではないが、木材ならばそういう季節の厳しさを打ち消すように働くことも多い。コンクリートは自然界と一体になることも困難だ。そのことに気がついているから、半地下に建物を押し込むのかもしれない。(直島の地中美術館、表参道ヒルズ、21_21 DESIGN SIGHT)。


あのような単一の色彩、均一さを造るのが難しい色彩、それもグレーという色彩には、モダニズムの本質が隠れている。直線と円がモダニズムの形態ならば、モダニズムの色は無機的な灰色である。


ポストモダニズムも含めた<広義のモダニズム>が終焉しつつあるいま、建築におけるモダニズムも考え直す時期がついに訪れたのではないか。ここにこれからの建築の方向を見ることは可能だ。隈研吾さんはその方向を目指している1人であるかもしれない。





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この記事へのコメント

ぺこ
2009年09月18日 02:12
お久しぶりです。

ここでおっしゃっている田中さんのお考えは、

安藤忠雄さんのコンクリート建築を打ち止めにすべきなのは、「<広義のモダニズム>が終焉しつつあるいま」の流れ・環境に適合していないからということでしょうか。

今回の記事やAiwayway『何に因って?』をみて、自分の中で「アートって何か」という認識が甘かったなと感じました。
田中公一朗
2009年09月18日 02:31
ごぶさたですー。お元気ですか??

安藤さんの建築。素晴らしいのですよ。過去の特定の様式の建築が素晴らしいのと同じことでしょう。

コンクリート剥き出しを見ても、いまの自分はいいなと思わなくなったという「美学」的な面と(自分勝手ですな、でもそれは自分自身には重要!)、ぺこさんが書かれている通りの、<広義のモダン>じゃあムリじゃん、という考えから来てます。たいしたことを言っていません、自分w

Ai Wei Weiですか? 僕はイマイチでしたねぇ。これってオノ・ヨーコがやっていたようなことに似てるじゃんと。

(広義のモダニズムって、民主制とか資本主義も入れていいんじゃないかしら)。
ぺこ
2009年09月18日 23:30
はい、元気です。
田中さんもお元気そうですね。

自分がいいなと思うことっておっしゃる通り重要だと思います。わたしもAi.Wさんの作品はしっくりこなかったのですが、

彼は彼なりに作品の目的や意味を見出していたように感じました。さらにもっともらしい解説がつき、

「ただいやだなと思う。」以上発展しない自分の感想が何にも因ってないなと、気付きました。

そこで安藤さん、AI.Wさん、田中さんが何に因ってアートをアートとするかに興味が湧いたというわけです。

恐れながら、お三方とも共通していると思ったのは、
時代の流れ・状況を考慮されているという点です。もちろん個人をとりまくだけの狭いものではなく、もっと大きい流れです。
田中 公一朗
2009年09月19日 09:13
Aiさんがやっていること、いやでした?? もう一回感覚をゆらしてみようよ、とか、日常のことを見つめてみようと、ということだとすれば(やや違うか)、「アートらしいアート」なのかなとは思うのですけれど。

3人、自分はさておき、歴史的なもの、時代の流れは考えているでしょう。それがなければなにもできないでしょう。過去からの影響ではなくて、まるで過去に住んでいるかのように。
ぺこ
2009年09月19日 19:35
そうですね。「別の見方・使い方をしてソレがソレであることを再認識させる」っていうようなAiさんのコメントが書いてあったと記憶してます。有言実行なされていたと思います。

(この記事でおっしゃられていた「素材はあくまで素材であり」という部分を読み、上記のAiさんの記憶を思い起こしました。この場でAiさんの名前をだした理由です。)

Aiさんの作品、interestingではありました。ただ、一つ一つの作品とAiさんとの関係がフランクに感じられました。(と言うのは気が引けますが)彼はアイディアを練って練って作品を完成させたというより、思いついたアイディアをどんどん実体化していく活動家タイプの人かなという感じです。展示されていたような作品を創造するよりもっと情熱を注ぎたいことが他にあるかのようです。

安藤さんとAiさん、素材は素材であるということへの認識は同じなのかもしれません。ただ安藤さんには「その後」があるように思われます。

Aiさんは素材であるという帰結を作品として表現し、その後どうするかは鑑賞者へパス。

一方安藤さんは単なる素材であるという結論を発展させて作品製作(建築)に利用しているという印象を受けました。地中美術館の場合に限って言えば、無機質なコンクリートの中に人間や植物を置くことで生命の力強さが強調されていると感じました。
田中 公一朗
2009年09月21日 01:03
ほとんど同感です。

安藤さんのものは建築ですから。残ってしまうのが現在の建築の宿命ですもの。ほんとはパオみたいに、移動型建築というのが究極的には望ましい気もしますけれど。テントのようなもの。

なんでみなさん、こんなに大きなビルをたて、マンションやオフィスにして住んでいるんでしょう? 生活するとわかりますが(自分のウチは10階にすぎません)、落ち着きません。三十数階のオフィスなどいやですね。心が安定しないでしょうに。52Fだってそうですが 笑

建築家はいつも生命に注目してきたと思うのですが、安藤さんもそうなのでしょうね。水とかよく遣いますもの。
ぺこ
2009年09月24日 02:06
建築は人が利用して成立する作品ですので、建築家が人間の行動を念頭におくことは必須なのでしょうね。安藤さんの場合は、人間だけでなく植物や水などその他の生命も想定されているという点で「すごい」人なのかもしれません。

高層や建物の大きさに価値を置くようになったのは都市ゆえかと思います。人口密度、高層に価値を置く広告、景色の問題などが関わって高層が高層を生む連鎖になっている気がします。1階と比べてしまえば2階でさえ不安です。空き巣が入りにくいという点以外は安心できることは確かに少ないです。

移動型建築についてですが、
交通のインフラも整っている21世紀においてはもはや家自体を移動させる必要は無いように思いますが

田中さんがパオのような移動型を究極の理想とお考えになるのはどうしてですか?

取り壊し・再建しやすい点、もしくは移動しやすい点(後者ならトレーラーハウスが使えそうです。)または地面により近いという点など
どのような点に注目されていらっしゃるのでしょうか。
田中 公一朗
2009年09月27日 20:00
お返事に対してどう書こうか、ちょっと考えていたのですが、自分のことがよくわかりません。つまり、自分がなぜ移動できたほうがいいと思っているのかが、です。

もともとは「所有するのがきらい」「身軽でいたい」という情動レベルのこともあるでしょうね。
(とはいっても、本とCDが大量になるのですが)。

あとは「クリエイティヴ・クラス」のつもりに勝手になっているのかもしれません。

結局はどういう関係性を人と持てるか、ということで、家を買ったら「幸福が近づく」わけではまったくない、と考えているからでしょう。

(居住性がよければテントでもいいです。いまのテントはよくないんですが)。

縄文と弥生の違いというようなことではないんです。
ぺこ
2009年09月29日 05:33
おはようございます。
「クリエイティブ・クラス」については全くわからないのですが、リチャード・フロリダさんの本面白そうですね。
 
さて
本とCD、パル、最近購入されたキーボードも
「所有」と同時に「ポータブル」という点で一致します。

固定型建築を所有することで
後の人生を自ら所有してしまう、
もしくは、人生を建築に所有されてしまう、
というより人生が「ポータブル」でなくなるから
移動型建築を理想となさるのでしょうかね。
分かりませんね。

私の弟は父親が建てたマイホームを引き継ぐ将来プランを持っている様子です。弟を見る限り、家を手に入れることで「幸福が近づく」と考えているようには見えません。(世代も関係していそうです。)但し、家が無い私と、家を確保している弟の将来展望の間には差が生じてきています。(どちらかといえば私の方が「ポータブル」です。)もちろん性格や性別も関係してくるのでしょうが、家のあり方が行動範囲・人間関係に影響していることもうかがえます。
田中 公一朗
2009年09月29日 14:30
その、弟さんとの対比?はおもしろいですね。昭和の時代は、「マイカー」「マイコン」(コンピュータのこと)「マイホーム」だった。これが消費の目標だし、入手することで、なにか(幸せか?)が保障されたんです。

所有することをだめ、というつもりはまったくないです。自分だって所有するのが好きなものはあります。個人的記憶と結びつくものでしょう。

でも、家も、車(カーシェアリング)も、本も、DVDも、楽器(貸与)も、どれも一時的なportとして機能しております。インターネット自体がポートを通じて接続しております。

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