【劇評】別役 実作、『象』、新国立劇場小劇場 演出 深津篤史 

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不条理演劇として有名な『象』。

うんと簡単にここまでの時代を振り返ってみます。


1970年代以降、政治的な活動は限られた人だけの営みになり、80年代の消費ブーム。そして1990年代。この時代になると日本地域の人々は、「意味」に束縛されることはなくなっていく。たしかに「自分ってなに?」というような意味を探す「自分探し」はありました。しかし、それはまさに意味が見いだせなくなったからでしょう。


人生の意味。生きる意味。働く意味。こういうことって考えても仕方がないことで、そのことを考えるのに時間を使うのだったら、他者のために行動したり、自分の周囲をこじんまりとでも充実させたほうがいい。こう考える人が増えたと思われるのです(ボランティア、MUJIに代表されるでしょう)。

つまり意味にどういう意味があるかを探ることをやめた、ということ。


そして2000年期に入ると、自分なりに作品を作ったり、アレンジをしたりという動きが出てきます。youtubeで、演奏やダンスを披露することからはじまり、初音ミクというYAMAHAのヴォーカロイドによって原曲をアレンジしたり。UNIQLOを自分でデコレーションしたり。


こういう視点にいったん立つと、「不条理劇」というのは理不尽で、意味がわからないのではなく、むしろとっても明確な世界を出している、ということがいえそうです。つまり:

「世界そのものには意味はない」

ということです。


だからといって、死んでしまおう、とか、なにかをやっても仕方がない、ということではまったくありません。

むしろ現在は、その無意味さをよく理解したうえで、どのようなコメントをつけてゆくか、原作やもともとの製品にどう加工を施せるか、という文化形態になっていると思います。





今日の『象』は、シーンや台詞に意味を求めずに観れば、とてもはっきりした「ストーリー」(というか「設定」)であります。


内部は入れ子構造になっていて、敵か味方かが、誰が決めるともなく決まっている。それは主人公と妻の間、通行人の2人の相互関係(敵か味方か? カール・シュミットのような世界観!)、舞台上の人物と、観客の間での「敵対関係」に現れます。

そこはこの演出でははっきり出されていました。


俳優陣は大活躍。大杉漣によって、この舞台は成立しているといえなくもないけれど、羽場裕一、山西惇も笑いを起動させるのに成功!!

稲垣吾郎を病人役にするのもありえたかもしれない、とも一瞬思う。


台詞が終わり、客電が落ちる。すると軽快な音楽が流れてカーテンコール。ここは芝居としては取り去ったほうがより充実したはず。つまり、舞台上の登場人物と、観客の対立関係がこれで解消され和解してしまったから。緊張がこれで解けてしまった。


もしより現在的な演出をするならば、本当に観客を舞台に乗せたり、装置としての服を観客に着せる、台詞を
加工させてもらうといったような、エンゲイジメントをさせる、のが考えられるでしょう。それは60年代のアンガージュマン(政治的参加)とはもちろん関係はありません。

★★★★☆



なお小劇場のあちこちに、別役実さんの過去の舞台のポスター現物が貼ってあります。そのガイドは、2Fに展示ポスターあり。丁寧に作られた年譜もあり。


(3月27日、夜の部、東京、新宿、新国立劇場小劇場PIT)

参考:
http://www.nntt.jac.go.jp/play/20000208_play.html
http://www.nntt.jac.go.jp/play/20000115_frecord.html





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