文化政策と都市政策について Cultural Policy and the City

文化政策といっても一般的には明確ではないかもしれません。もともと文化に政策があるのか?という問いも生まれそうです。

しかし、この比較的新しい分野は、沈滞しつつある先進国に大きな意味をもつでしょう。



後藤和子さんのこの本は、いろいろな論文を集めたものなので、自分なりに再構成をしてみましょう。

都市で生活しているのは先進国では人口比で70%程度です。では都市は順調に発展をしているのか?というとそうではありません。

交通やセキュリティー、孤独化、コミュニティーの喪失、廃棄物処理、再開発、ダウンタウンの治安悪化といったさまざまな都市問題を含みます。


そこで出てくるのが「文化」なのです。


人と人のつながりが都市部においてはなくなりがちで、またそのことが都市を住みやすくもしています。共同体的な縛り付けがないのですね。

ところがその点がむしろ孤立感や、地域の盛り上げにはつながらなくなっています。引用しましょう。


日本では、近世には農村舞台など村落共同体の生活に根ざした芸能が広く存在し、共同財として支えられていたが、近代国家は、こうした市民による伝統を断ち切る形で、西洋の美術や音楽を取り入れるという文化政策を開始した。近世に共同財として存在した文化政策は、近代以降、国家が行う公共財としての文化と私的財としての文化に乖離し, 最近まで接点を見出せずにいたのである。かかる文化政策の成り立ちは、市民の合意なくしては進まないという文化政策の特徴を形づくり、政策の流れにも反映されている。

(後藤和子、『文化と都市の公共政策』、p.102-103)


近世までの村における文化の枠組みが壊れ、それを政府や自治体、そして私企業が担うようになりました。たとえば家から電車や車で博物館やコンサートホール、映画館に出かけ、そこで家族や友人と過ごし、また居住地に帰ってくるという形態が起こったのです。

これはこれでとても重要な変化で、東京では世界の多くの文化活動が直接見られます。そこには企業の支援(メセナ)、文化庁、自治体の文化部門部署、各国大使館、個人の寄付、ボランティアといったさまざまなアクターがいます。

別の視点でいえば、<市場化セクター、政府・自治体セクター・非営利セクター>の3つから文化活動は出来上がっています。


これでわかっていただけるかと思いますが、文化活動はただなにかが楽しい、とか新しい刺激を与えてくれるといったことだけではなく、多くの人がそれぞれ別の形でかかわっています。ここにはスポーツも入れていいでしょう。


(注:都市部でなくても、たとえば「祭」がこれに似ています。地域に根ざし、地域に対する貢献と愛情から祭を企画し、実際に多くの人が参加し、結びつきを一時的にせよ強める。地域の企業は少額かもしれないが寄付をし、段取りを決める人や世話役がいる)。


アーティスト、クリエイター、プロデューサーは文化活動に加わり主力になるでしょう。その人や企画や、フェスティヴァルの吸引力で、その地域が賦活化、活性化してゆくのです。緩いながらもコミュニティー機能が育つでありましょう。


では、これを「政策」として見た場合にどうなるのか?


すべてをあらかじめシミュレーションをして、特定の文化事業がどのような効果をもたらすか、というのは完全な予想が不可能であることがわかっています。不確定な要素が強すぎるからです。


もちろんここでは事前評価と事後評価を厳密にし、より市民が合意できるような文化政策を練り上げてゆく必要があります。企業はむしろその評価をしない場合もあります。


このような都市政策、あるいは文化政策がうまくゆけば、それは人々を強力に吸引しますし、クリエイティヴ・クラス(フロリダの冴えないネーミングですが)も惹きつけるでしょう。


つまり、文化政策は、都市政策であり、だから公共政策なのです!




ここでは山本理顕氏が冒頭で、「一住宅=一家族」という呪縛が日本地域が八方塞りの元凶であるとしています。

それは上記の文化政策でいえば、家族が閉域化してしまい、第三者が入る隙間がないことです。それは家族や個人が地域に出て行きにくい建築構造、都市構造になっていることと関連します。ですから広い意味での地域のダイナミズムが起きにくい

これはウェブ上でも言えることかもしれません。Twitterは別にしても、mixiはどちらかといえば閉じた世界です。ここからクリエイティヴなことは起きにくい。実際には、大義があればかなり可能性はあって、自分も関わった経験があります。


この『地域社会圏』の中では、ちょっとどうなのかな? という議論も含めて、いろいろなアイデアがパースや図、対談満載で載せられています、藤村龍至さんの「ローマ2.0」は、発展性があるでしょう。ただ都市は可動的面や隙間、不連続性をどのように入れるかがむずかしさかもしれません。

なんでも人知でデザインし、構築してゆくのはあまりいい結果をもたらさないというのが歴史の重すぎる教訓です。かといって、すべて市場にまかせて都市計画などはできるものではありません。1990年代以降に東京や大阪で出現した40階立て程度の「マンション」がいかに問題を含むか、つまり「一住宅=一家族」イデオロギーの怪物的産物であるかを再考すべきでしょう。

まだまだ日本地域の再生へ、やるべきこと、考えるべきことはたくさんあり、そこに大いに希望を見いだすべきです。根拠なくいたずらに悲観論を繰り広げるのではなく。





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