心脳問題、クオリアを廃棄する

神経科学(日本語では脳科学)の本を読んでいます。なぜか、というと自分がもっとも関心がある「空間」の定義付けに関係するからです。

人がどのように空間を心地よいと感じているかについて、そこで「心」がどのような役割を果たしているかを理解する必要があるからです。どうしても!


神経科学の学者は、心の実在や機能に控えめな意味を与えます。わかりやすいところでは、池谷祐二さんや、坂井克之さんなどです。引用します。


実際のところは、脳で一定以上の強度をもって表象された情報そのものが、これを見ているように感じている「わたし」を作りだしている、と考えたほうが少なくとも科学的アプローチの対象となります。
(坂井克之、『心の脳科学』、中公新書、2008、p.265)


脳の作動そのものは単純なのに、そこから生まれた「私」は一見すると複雑な心を持っているように見えてしまう、ただそれだけのことではないだろうか。

池谷裕二、『単純な脳、複雑な「私」』、朝日出版社、2009、p.384)




いまのところ、自分の作業仮説はこんな感じ。


もともと人には心がない。つまり完全に人と隔離された場所で育った場合(アヴァロンの野生児のようなケース)、心は「ない」。

ところが、言語のインストール過程(学習です)で、言語スペースが生じる。いわゆる認知言語でいうメンタル・スペース。 これ自体が比喩ともいえるが、しかし実際に「位相」が転移している。

学習しつつある言語を使いながら、外界を見る(視覚)。また外界を見ながら言語を使いこなしてゆく(言語能力)。その際、他者との同一化が行なわれる。それは一次的にはミラー・ニューロンを通じて行なわれる。 二次的には言語である(フロイト的な呼びかけ、「あっち」と「こっち」)。

他者を自己に移しこむ。他者の言語空間が、自己にプロジェクト(前射、と仮に訳しておきます)される。

その自己の、他者への前射が、今度は他者にインサートされる。これは、入れ子構造、フィードバックとフィードフォワード、といえるでしょう。しかし、それだけでは「心」は生まれません。


この段階では、ちょうどロシア人形のように、固定的な心があるのではなく、レースのカーテン状の、影響を受けやすく形状や機能も不定形なものに過ぎません。


そして次の、そして最後のステップ。


自己の周囲への感覚(いわゆる五感)によって、外界もインストールする。(脳にこのようなニューロンが必ずあるはずです)。空間定位なら、現時点でもわかっているけれど。


これで、緩やかな「心」(外界・内界への精神活動)が働く。


心は空間を持つのです。
たとえば、「あの人は広い心をもつ」「もっと心を開いて」、と人は言います。

このように心を空間として認識しています。これが内面、と呼ばれるもので、その内面=精神面が外界に向かうその前向きproactiveな行為が、視覚を忠心にした心を生成しているのです。もちろん音声や触覚だけでも心の契機になりうるでしょう。

人類が認識した外界が空間をもっているために、その空間が心のなかに生成されるのです。



さて、心を構造の視点から見ると、
①意識、感情、情動、が心の構成要素。
②意識、前意識、無意識が階層構造。
でしょう。


人類は、どの文化圏もほぼ同じような他者関係をもっているので、ユング的原型が生じてしまうのでしょう。もともと原型があるのではない。
つまり村上春樹の『1Q84』や、宮崎駿の世界観は20世紀的だ、ということがいえる。


むしろフロイトのように、意識や無意識は構築的なもので、そこにはニューロン水準や感覚器官という基盤がある。しかしそれだけでは心には至らない。まだ足りない。外界と、自己と他者が必須。


これで思い出す人は思い出すでしょうが、これ自体はマルクスの価値形態論のようです(マルクス、『資本論』、第一巻)、しかしそういうことでしょう。
マルクスは、価値形態論、つまり物々交換からどのようにして貨幣が生じるかを、歴史的にではなく、理論的に説明している。だから現実に起こっていることとは直接関係ないと但し書きをしています。


いま、上で「さらっと」書いたのは、ニューロンからどのような経緯で心が生じるかのひとつの仮説(にもなっていませんが)のつもりです。

いいかえれば、神経線維からどうして心が生じるかを説明するのが、精神生成論、です。

こう考えればクオリアのような神秘的なものは必要なくなります。クオリアというのは広義のユング的概念だから、多くの人を一瞬にして捉えてしまうのでしょう。
しかし、ちょうどユングがなぜ原型があるかを説明できないように(その必要を感じていないのでしょう)、なぜクオリアが生じるかは、はじめにクオリア概念を出してしまうと、永遠に説明できなくなります。

自他相互の「前射」の共有体験がクオリアと呼ばれているものなのでしょう。


たとえば、上記の仮説であれば、
「なぜ、人はある場所を気持ちよく感じるか、居心地がいいか」が説明できます。演劇や音楽がなぜ人類史と並んでいるのかもです。音声、言語、と心の生成は密接に関連している、のではなくて、そのものなのです。
下條信輔さんはその中で一章を割いていますが、そういう理由でしょう。ただし説明が成功しているとはいいにくい。

いまの説明は日本語文献、それも一般書に依存しております。より厳密には、たとえば"Nature"のNeuroscienceなどを読む必要があります
http://www.nature.com/neuro/index.html
わりとよく更新されてます。



脳の研究の第一人者であったエックルズ(ノーベル医学・生理学賞受賞)は、驚くべきことを書いています。


自我とはすなわち魂のことであり、それは、自然神学的な意味での神の摂理によって、胎生期のいつかに私たちの肉体に宿るのだと著者は信じる。
(エックルズ、ロビンソン、『心は脳を超える』、紀伊国屋書店、1989、p.80、原著は1984年刊行)


こういった考え方が出てきたり、量子力学を使ったペンローズのアイデアが出てくるのは、欧米の文脈のなかではわかる気がします。

しかし、わたし(たち)はそういったものを踏み越えて進まなくてはならないのでしょう。

もちろん、所詮は素人。専門家から見たら、寒い話でしょうね。ただ自分には大きな発想源にもなりそう。


単純な脳、複雑な「私」
朝日出版社
池谷裕二


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最新の研究が手際よく紹介されています。



ミラーニューロン
紀伊國屋書店
ジャコモ ・リゾラッティ


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ミラー・ニューロン発見者の単行本。多少の神経科学の知識が必要だと思われます。科学書を読みなれていれば、おもしろく読めるでしょう。一般書籍ではないです。





上記の下條信輔さんの新書。いろいろなテーマが書かれています。



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