不確実性とネコ Uncertainty and Cats

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偶然性ということを考えた場合に、およそ2つのことが想定できる。ひとつは、ある程度の想定の範囲内、予期できる範囲の偶然性がそれだ。ネコがピアノのキーの上を歩く場合、いろいろな音がするに違いない。通常、それらは不協和な音だろう。もちろん、偶然にモーツァルトのピアノ・ソナタに近くになってしまう可能性は残されている。しかし、それは偶然性のなかでもより生起しにくい偶然性だ。まず起きない。


もう一つの偶然性は、まったく予期できない偶然性だ。頭の中に浮かびもしなかったような偶然。たとえばネコがピアノの鍵盤上をしずしずと歩いた場合、ピアノがその重さで崩壊してしまうような偶然。ピアノの脚が3本とも取れてしまう可能性。これだってないわけではないし、実際にコミックのなかでは起きうるだろう。しかし現実にはこの確率は算定できない。起きるかもしれないが、算定できない。

この考え方はナイトの「リスク」と「不確実性」の議論そのものである。



だがそうだろうか? 人にとって、リスクと不確実性とは、別のものなのだろうか?



人には多くのことが降りかかってくる。そこには幸運としか言いようもないこともあれば、逆に、災厄としかいいようがないこともある。しかし、とにかく人はよくわからないながらも、出来事を判断し、なんらかの決断を下し、行動をする。

自動車事故にあうとか、突然にプロポーズされるとか、見たくもない映画をみたら面白かったとか、親が死ぬとか、いろいろなことが起きる。そしてそこから学ぶのは <経験は役に立たない> ということだろう。


つまりリスクや不確実性といったことに対しては、経済学的にはさておき、その場で対応し、いろいろな可能性を考えなければならないのだ。過去の経験は使えるのだが、それは、過去の経験がたまたまうまくいったように思えたから。その人は、充分に現況を把握し、適切な判断を適切な時期に下したのではないことを知っているものだ。



たとえば、アニメのなかで、なんの理由も原因も思いあたらずに、「使徒」とよばれる集団に攻撃性されるとしよう。このアニメのなかでは過去の経験は役に立たない。敵はいつも新しい形態をもつ。しかし、登場人物たちは、それが敵であることを瞬時に知る。


なぜわかるのだろうか。経験がないにもかかわらず、それがなにものであるかがわかるのか。それは経験をあてにしていないからではないか。つまりリスクではなく、すべてのことを不確実なものと考えているから対応できるのではないか。

まったく経験がなければ判断ができない。だが同時に、経験があるとリスクや不確実性に対応できない。確率を算定できようができまいが、同じことである。


こうなると人に残されたことは、2つだろう。楽観的になること。そして直感とともに行動すること。ネコがちょうど日々そうしているように。



(注)
フランク・ナイトの著作については、英文、日本語訳とも、楽観的に入手可能。





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