ムバラク辞任 Mubarak Down

画像


現在は神がいない時代だ。信仰を持ちにくい時代であるといっていいだろう。既成の宗教も、そして新しい宗教もいまのところ人々を惹きつけることに成功しているとはいいがたい。たしかにイスラーム教は世界のあちらこちらで信者を増やしているとはいえ。


どうしてこうなったのかについてはすでにいろいろと考えられている。信仰を捨て、世俗化することで現代社会は出来上がっている。特定の創造主はいない。世界は人間のものだ。人は自らの力で自分の未来を創ってゆける。そういう考え方が拡がった。

宗教から距離を置いたら、人はなにに精神的活動の土台を据えればよいのか? 芸術か。スポーツか。いままでは先進国においてそれはひたすら消費活動だった。モノやサービスを買うことのなかで自己が実現してゆく。20世紀には車や家を買うことが目標に人生が営まれた。とくに一般の消費者にもブランド品の入手が消費の目的になった。ここまではよく語られる推移だろう。

注意すべきなのはここからだ。

このような消費に自分の目標をさだめ、そこから生き甲斐を探し出す方法は限界に来ている。ブランド品を買っても充実感は長続きしない。モノやサービスで精神的充足を求めても難しい。もちろんそれは誰もが困難なのではない。そういう古風なスタイルは有効な人には有効だ。ただ、その方法は臨界点にある。精神的に充足しない不安が社会を覆う。


では、人は充実感や満足感をなにに求めてもいるのか? それこそが繋がりだろう。人と人の連繋。相互のやりとり。なにもネットワーク社会になったからではない。日本では1995年前後からボランティアという形で連繋社会になりはじめていた。長いトレンドなのだ。そのさらに萌芽になっているのが1968年の革命かもしれない。その場で自生的に立ち上がる社会。互恵というよりも、情報や行動の贈与を基盤とした社会。


上記の流れのなかで、たとえば2011年のエジプトの革命は、連繋革命linkage revolution と呼ぶこともできる。たしかにムバラクによる独裁政権に対する反感、嫌悪と宗教的な要素はここにはあるかもしれない。しかし、エジプトの政変は、イスラーム教徒やコプト教徒の民主化だという要素では決して語れない。すでに世俗化が充分に起きているカイロという人口1800万人の都市部で革命が進行したのが特徴的だ。アラブ圏で起きた革命であることはあまり強調しないほうがいいかもしれない。


アル・タヒリール広場でまるでカーニバルであるかのように継続されている変動は、繋がりを造り、それを確認するようなアイデンティティに関わる行動にもなっている。しかし、単にアイデンティティといっても事態は明確にはなりにくい。これは解放広場において、一時的にせよ、若年層が中心になり、また女性も加わった活動なのだ。


フラワー・ムーブメントほど自己確認をしたいのではなく、だが解放と繋がりに焦点が当たった革命。それはもはや単に革命とは呼べないかもしれない。催涙ガスに対してはどのような対策があるかを相互に知らせ合う。警官隊との望ましい戦い方を提示し合う。そういった反逆は、反逆が目的というよりも、情報伝達や受け渡しそのものが目標になっているかのようだ。


エジプトを、開発独裁と呼ぶか、国家管理資本主義と呼ぶかは別にして、少なくとも経済活動はうまく行っていた。2006年から2008年までのGDP伸び率は約7%を維持。昨年が6%台。外資の導入やむしろそのこと自体が、皮肉なことに独裁の問題と富の分配の問題を引き起こした。その点はファリード・ザカリアが言うとおりかもしれない。トクヴィルを引用している。「もっとも危険なのは、問題がある政府が自ら改革をしようとしたそのときだ」(TIME、2/11/2011) しかし今回の革命はそこにポイントがあるわけではない。


特筆すべきことは、カイロ、スエズ、アレクサンドリアで抗議をしていた人たちは、自発的であり、自生的であり、リーダーもなく、そして政治的な思想やイデオロギーがなにもなかった点だ。それがこれからのエジプトの方向性を決めにくくさせ、またある方向へ大きくスイングする可能性を含んでいるのではないだろうか。きわめて不安定であり、不確実だ。それはユーラシア大陸全域に及ぶ津波になるだろう。いや、アフリカもラテンアメリカにも及ぶかもしれない。








ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック